私、ボケたくございません。

齢50の声が近づき、今までお気楽に生きてきたことを考えると、将来、いや明日にでもボケる気がしてなりません。よし、散歩して、写真撮って、ブログすれば、大丈夫!・・・カモネ

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Tue. 22:53:33 -edit

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私的スナップ考 ~ ZeissIkonが防湿庫で眠っている(言い)訳 

本日は、今までも時折あったように、少々生意気なことを申し上げます。
ワタクシのカメラの腕など、今もって初心者の域を出ない半端者ですが、一応考えていることもある・・・ような気がします(笑)

いつにも増して、今日は長いよ~

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「スナップ」の定義はワタクシ自身、何となくしか分かっていませんが、便宜上ここでは「身近な光景を見たまま素直に写真に納める」ことと致しましょうか。
実際ワタクシはそのような思いで、散歩の道すがら何気ない光景にシャッターを押すことが多いのです。

で、過去の写真を振り返ったとき、常々疑問に思っていたことがあるのですが、それは
「どうしてワタクシはこのような光景を撮りたかったのか、そして実際に撮ったのか」
と言うことであります。

花マクロなどは「キレイだと思ったから」とか「光の加減がステキだったから」などと、もっともらしい動機が写真から感じられることが多いのですよ。
一方、身近な街並みの光景など、後から見返しても「何が心を動かしたのか」分からない写真が多々あるのも事実。
ワタクシはその理由を、次のように推察しておりました。

 �撮ったときの感情(すなわち動機)を、今では既に忘れてしまった
 �写真技術が未熟で、動機が適切に写真に現れていない

�に関しては「ある」と思っています。
時として、撮影時にWBがマッチしていなくて、後処理で調整しようとしても、なかなか色合いを思い出せないことがあります。それと同じように、撮影時の状況を忘れてしまって、動機が思い出せないのではないかと。
詰まるところ「何となく撮った」、すなわち「動機が薄い」ってことだと思います。

�に関しても、当然「ある」と思います。
ワタクシの撮影技術の稚拙さは、自分が一番分かっておりますから。

きっと�と�の両方の理由で、「わからんちん写真」が数多く生まれたのだろう、と、このように考えておったのでございます。
そして半年ほど前でしょうか、とある思いつきから、これら「わからんちん写真」の中に、ある共通点を見いだせることに気付いたのです、ジャ~ン。


_DSF0749-Edit.jpg



その共通点とは、
 (1)縦写真が圧倒的に多い(これは既に自覚しておりましたが)
 (2)民家の裏手など、一部が陰になっている光景が多い
 (3)人工的な直線で構成された複数のモノが共存している光景が多い
と言った感じです。

ワタクシはパソコン上で、写真をカメラの機種別/撮影日ごとフォルダを分けて管理しております。
そして「わからんちん写真」たちは、複数のフォルダに分散されているため、今までまとめて見たことはなかったのです。
ある日ふと思いついて、これら「わからんちん写真」たちを、Lightroomの仮想フォルダ機能を使って一つにまとめて見たのです。
そうしたら、1枚ずつ見ていても分からなかった共通項が見えてきたのであります。

う~ん、、、これはいったいどうしたものか。

縦写真は横写真に比べ、左右の視界を断ち切っているため奥行きを感じます。
一般的な光景では、左右への広がりは360度でつながっていますが、上下方向は無限。もう少し正踏み込みますと、下は地面で上は空(宙)。すなわち、下を底辺とした上方向への無限と言うことになります。
360度で元に戻る「輪廻」を断ち切って、無限の彼方へ延びる一方通行の途。
このことからイメージするに、「地上から天空」、「現世(或いは地獄)から天国」、「生から死」、「陰から光」あるいは「光から陰」・・・
いずれにしろ、横写真よりメッセージ性が強い構図だと言う印象を受けます。
昔流行ったコンポラ写真では、縦写真は厳禁!らしいですけどね。

また、(2)や(3)からは、「普段は目に触れないモノ」、「隠したいモノ」、「凋落」、「人間の本質の無機質化」、「無機質の調和」など、深読みすれば読み取れそうです。
いずれにしろ、撮影時にワタクシが全く思ってもみなかったようなコトばかりです。

単純に考えれば、(1)~(3)の傾向を「ワタクシの好みである」と片づけられるし、それは妥当な気も致します。
しかし、、、ワタクシ自身、このような好みがあるとの認識は全くございません。
それにワタクシが気になっているのは、前述した撮影時の「動機の薄さ」。
動機が薄いならば、それほど自分の好みは反映されていないのではなかろうか?

撮影対象の「好み」と言うのは、綺麗な花や鳥、燦々と輝く朝日、壮大な大自然、可愛い子供、愛用の文房具・・・そんな具体的なモノのような気がします。
ワタクシがそれほど意識せず、そう、無意識下でレンズを向けるのは、「好み」と言うよりもっと深い処からほのかな泉のように沸き上がってくる「微弱な衝動」なのではないかと。

まるで何か「見えざるモノ」によって、撮ることを仕向けられているのでは??
いや、そんなバカな・・・


DSCF0166-Edit.jpg



そう。
この答えを、ワタクシは、知りたい。
上に挙げたモノと、未だ見えてこない「何か」の源泉を知りたい。
さすれば、一番身近で一番無知な「自分自身」が見えてくるような気がするからです。
なんちゃって、ね。

そのためにはとにかく何も考えず、内なる微弱な衝動を逃さないように、撮る。
 10枚では分からないものが、100枚撮れば分かる。
 100枚では分からないものが、1000枚で分かる。
 1000枚では分からないものが、・・・
それしか思い当たりません、でしたのよ。

ここ数ヶ月間、暇を見つけては、この乱写を継続中。1時間の散歩で100カット以上。花などを撮る時と違って、これは結構な枚数です。
撮った写真をどうやって読み取るか、どのように解釈するか、それはまだ分かりません。
もしかしたら、宇宙の真理の如く、一生その意味が分からないかも知れないけれど、まぁ他にやることも無し。

『古今東西、理屈で撮れた写真無し』の金言を胸に秘め、今日もせっせと電気信号の収集に励みつつ、適当な理屈を当てはめる、40代最後の一年を送っているいなきちなのでありました、まる


あ、ZeissIkonを使わない理由、ですか?
確かに、この哲学的とも思える命題を解く旅の伴侶としては、やはりLeica(触ったことナシ)かZeissIkonが適当であろうと考えるのではありますが・・・

乱写するんだから、デジタルじゃなきゃ破産しちゃう、じゃん!


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2012年01月31日| Comments(8)Trackbacks(0)

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テーマ: ある日の風景や景色 - ジャンル: 写真

カテゴリ: 写真論(笑)

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